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虎々なるままに日暮し

小林繁氏の若すぎる死悼む声相次ぐ

≪57歳…小林繁氏の若すぎる死悼む声相次ぐ≫
プロ野球巨人、阪神で活躍し、2度沢村賞に輝いた現日本ハムの小林繁投手コーチが17日、57歳で死去した。
巨人の長嶋茂雄監督の初優勝に大きく貢献した一方、「江川事件」で電撃トレードされて悲劇のヒーローになるなど、波乱に富んだ野球人生だった。キャンプを直前に控えたこの時期の突然の悲報。ともに今季を戦おうとしていた日本ハムの梨田昌孝監督ら、球界からは若すぎる死を悼む声が相次いだ。

巨人・長嶋茂雄元監督
「1976、77年のリーグ優勝に大きく貢献してくれたことを鮮明に覚えています。細身の体からは想像もつかないくらいスタミナがあり、本当に頼りがいがある投手でした。正直にいうと、阪神へトレードになったことは残念な思いでいっぱいです。現場の監督として悪いことをしてしまったという気持ちがいまだに残っています。若すぎる、早すぎる最期です」
日本ハム・梨田昌孝監督
「会ってから丸1日たっていないわけだから、本当に信じられない。まだ亡くなった感じがしない。1軍で一緒に戦えるのは近鉄以来で、本人も燃えていた。若い芽をどんどん育ててほしいと思っていた」
阪神・真弓明信監督
「びっくりした。現役でも(阪神で)一緒にやって、近鉄でもコーチで一緒にやらせてもらった。野球に対して熱いし、いい理論を持っていた。気も使うし、頭の回転の速い人。決して恵まれた体ではなかったが、気で投げる投手だった」
阪神・南信男球団社長
「突然の訃報に大変驚いております。年代が近かったこともあり、親しくさせていただいていました。ご冥福をお祈りいたします」
江川事件を知る坂井保之元西武球団代表
「江川事件はいまだに語られる球界にとってマイナスの出来事。でも彼のある種のプロに徹した潔さ、清々しさで負の事件を終わりに導いた。拒否することもできる立場だったけど、彼の決断が多くの人に感動を与え、球界は救われた」
ソフトバンク・王貞治会長
「短い期間でしたが、阪神で一時代を築いた好投手でした。これから後進の指導や、多くの子どもたちに野球の素晴らしさを伝えてほしかっただけに、まだ57歳という若さで逝ったことは残念でなりません」
阪神・久保康生投手コーチ
「細い体からは想像もできないほどの熱血漢で、若い選手を熱心に指導されていたことを思い出します。(近鉄では)私もコーチになって間もないころだったので、いい勉強をさせてもらいました」
オリックス・岡田彰布監督
「小林さんとはタイガース入団が同時期だったこともあり、大変お世話になりました。野球に関してもそうですが、プライベートでもよくしてもらったことを今でも思い出しますし、大変感謝しています」
元阪神・掛布雅之氏
「小林さんが阪神に入団された79年は、前年に田淵(幸一)さんが西武へトレードになり、僕が中心になってやらなければ、と思っていた年でした。いい意味ですごく刺激になりました。小林さんに負けられないという気持ちが、その年の48本塁打につながったと思っています」

≪小林コーチの訃報に「今は後任考えられない」≫
小林コーチの訃報に、日本ハムの球団幹部らも動揺を隠せなかった。
球団によると、小林コーチは今朝、体調を崩し、救急車で搬送される途中に息を引き取ったという。あまりに突然の死。選手からも問い合わせが相次ぎ、チーム内では激震が走った。ある球団幹部は後任について「まったく考えていない。決めないといけないのは事実だが、今はそういう段階ではない」と慎重に言葉を選んだ。

≪真弓監督、小林繁氏死去に沈痛な表情≫
真弓監督は阪神大震災追悼イベントの直前に訃報を受けた。昨年12月に電話で話したのが最後だそうで「元気そうだったけど…」と沈痛な表情。選手時代は同じ79年から阪神でプレーし、キャンプでも同部屋になるなど縁があった。
投手の小林氏を攻守両面で援護した真弓監督は「巨人戦は後ろから見ていても絶対に勝つという気で投げていた」と振り返った。近鉄ではともにコーチとして戦い「(2001年に)リーグ優勝させてもらったのは非常に思い出に残っている」と懐かしそうに話した。

≪日本ハム・梨田監督、涙こらえ「信じられない」≫
近鉄時代から苦楽を共にした小林繁投手コーチの突然の訃報に、日本ハムの梨田監督は17日、札幌市内のホテルで「昨日(16日、東京での)本社のイベントで会ったばかり。キャンプに連れていく選手や方針などを情熱的に話していたし、元気そのものだった。本当に信じられない」と涙をこらえながら話した。
2001年には、近鉄の監督と投手コーチという立場で、前年最下位だったチームをリーグ優勝に導いた。「投手交代でベンチを立つ瞬間、僕の背中をポンと押してくれる人だった。人を導く力があり、小林さんに任せてみたいと、一目置いていた。今年も助けてもらおうと思っていたのに」。久々に1軍でタッグを組むことを、何よりも梨田監督が楽しみにしていた。
日本ハムの2軍投手コーチを務めた09年には、糸数や江尻をサイドスローに転向させて成功に導くなど、若手育成に定評があった。「後任の人選は重要だけど、今は考えたくない」と唇をかみしめ「残念だし、悔しい。日本一を望んでいたと思うので、他の人と力を合わせて報いたい」と故人の冥福を祈った。

≪江川卓氏、小林さんに「申し訳ない気持ち消えない」≫
野球解説者の江川卓氏が17日、東京都内で記者会見した。小林繁氏の突然の訃報に「(2年半前)お会いした時はすごく元気だったので、びっくりした」と目を潤ませ、沈痛な表情を浮かべた。
球界のみならず社会全体を揺るがした「空白の一日」事件の当事者同士。「申し訳ない気持ちは、僕の中で終わっていない。原因はこちらにある。小林さんが亡くなったからといって、申し訳ないという気持ちは一生なくならない」と思いを振り絞るように口にした。
事件から28年後の07年に酒造メーカー「黄桜」のCMで共演。事件以来初めて言葉を交わし、江川氏が謝罪した。「プロに入る時から気になっていた。一番覚えているのは『お互い大変だったな』と声をかけてもらって、すごくホッとしたこと。2人きりで1時間ぐらい話せて、お互いの気持ちを言い合えて、救われた」と振り返る。
その後は一度も会うことはなかったという。「今年から日本ハムの1軍コーチになると報道されていたし、取材でお会いできると思っていたのに…」と早すぎる死を悼んだ。

-悲報を聞いたときの気持ちは
「突然だったのでビックリしました。それから続々とお電話をいただいたので、そういう事実があったのだと…」
-現役中の思い出は
「入団して2、3年目に飯倉(港区)のステーキハウスでバッタリお会いした。私がお詫びに行こうとしたら、向こうも気付いて、手で制された。“もう分かったから、来なくていいぞ”と理解していました」
-CM共演まで話す機会はなかったのか
「お互いに避けていた感じはあった。CMできっかけをいただいた。そこでお話ができたというか、お詫びができました」
-CM後の連絡は
「お会いしていない。お互いの気持ちが分かり会えた気がしていたものですから。日本ハムのコーチをやられるということで、取材でお会いできると思っていた」
-小林さんへメッセージを
「入団したときから小林さんの成績を超えようとやってきました。(阪神移籍)1年目に22勝されていたので、絶対23勝したかったのですが、抜けませんでした」


≪江本氏沈痛「闘争心はものすごい男だった」≫
小林繁氏と阪神でチームメートだった江本孟紀氏が17日、小林氏の思い出を語った。阪神の選手会長として“空白の一日”で移籍してきた小林氏を迎え入れた江本氏。現役時代、そして引退後の関係を振り返った。

小林が入ってきた時のことはよく覚えている。あの年の阪神は他にも真弓(現監督)や移籍選手が多くて、ただでさえ大変な騒ぎだった。そこへ小林も、となって選手会長のオレは小津球団社長(当時)に呼び出された。
「快く迎えてやってくれ」と頼まれたけど、オレも南海からの移籍組。その辺は言われんでも分かっていた。よくメシを食いに行ったし、遊びもした。“悲劇のヒーロー”やったから、チームにもすぐ溶け込めた。それでいきなり巨人から8勝よ。それまでオレと江夏(豊氏)の7勝が、阪神投手の巨人戦勝利記録だったのに、いきなり抜かれたわ。
スマートな見かけによらず、闘争心はものすごい男だった。巨人戦ではなかったけど、移籍1年目のシーズンに相手ベンチから汚いヤジを浴び続けたことがあった。その夜はオレの部屋にきて、一晩中「悔しい」と言い続けていたよ。オレも寝ないで付き合った。打倒巨人、という意識で結ばれていたからね。
オレがあんな辞め方(「ベンチがアホ」発言で81年に退団)をした後は、OB戦で会う程度だった。それでもオレが「プロ野球OBクラブ」を立ち上げたとき(94年)は協力してくれたし、不思議な因縁も感じ続けていた。突然の引退やタレント活動をしたり選挙に出たりと、オレと同じ道を後から辿ってきていたからね。何も死ぬ時だけ先に行くことはないじゃないか…。
実は数日前、あるテレビ局が「小林さんとの旅番組はどうですか」とオファーしてきたばかりだった。こういう因縁をふまえての企画だったんだけど、オレは「現役のコーチだし、今からは無理だと思うよ」と返事していたんだよねえ…。小林も同じような反応だったそうだけど、こうなってしまうとは。指導者として1軍に復帰したばかりで、本当に残念だね。



≪古巣・巨人にも衝撃…長嶋氏「悪いことした」≫
小林氏急死の一報は、古巣・巨人にも衝撃を与えた。長嶋第1次政権を支えた細腕エースの訃報に巨人・長嶋茂雄終身名誉監督、ソフトバンク・王貞治球団会長が悲しみのコメントを出した。
巨人のエースから天敵へ。小林氏が激動の野球人生を歩むきっかけに立ち会ってしまった長嶋氏は、後悔の念を隠さなかった。
「76、77年のリーグ優勝に大きく貢献してくれたことを鮮明に覚えています。正直にいうと、阪神へトレードになったことは、残念な気持ちでいっぱいです。現場の監督として悪いことをしてしまった、という気持ちがいまだに残っています。若すぎる、早すぎる最期です」
今だから言える本音かもしれない。小林氏は第1次長嶋政権(75-80年)時に計62勝。76年の初優勝で胴上げ投手になるなど、リーグ連覇に大きく貢献してくれた。
小林氏とこの時代の長嶋氏を支えた王氏も、特別な思いがある。主砲とエースという関係は阪神移籍後に一転。79、80年の2シーズンで、小林氏に41打数8安打(・195)と封じられた。
小林氏は王氏の打席で、投球フォームをより長く静止するなど、ゲリラ投法に出た。王氏もトレードマークの“一本足”を止め、タイミングの取り方を変えて対抗したこともあった。
「短い期間でしたが、阪神で一時代を築かれた好投手でした。これから後進の指導や多くの子供たちに野球の素晴らしさを伝えてほしかっただけに、まだ57歳という若さで逝ったことは残念でなりません」
どんなに悔やんでももう過去には戻れない。ただ、早すぎる死を悼むしかなかった。


≪小林氏の悲報にダル「とてもショック」≫
日本ハムのダルビッシュ有投手は18日、小林繁投手コーチの急死に球団を通じて「とても熱意のある方だと聞いていた。今年は1軍投手コーチに就任され、同じ舞台で戦うことになっていたので訃報を聞いてとてもショックを受けています」とコメントした。
現職コーチの突然の悲報から一夜明け、球団では千葉県鎌ケ谷市の2軍球場正面玄関前に献花台を設けた。20日午後5時半まで設置される。

⇒改めて投球フォームをテレビで見て、母が小林氏の巨人時代からのファンだった理由が分かりました。「巨人やったんやけど、小林は好きやった」私もリアルタイムで見ていたら、同じことを言ってたかもしれません。
面白い野球を見せてくれてたんですね…ありがとう。そして、お疲れ様。


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by kuru2chanbei | 2010-01-17 21:49 | その他

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